「ひらもうミュージアム オープン」 令和3年6月24日、本校の応接室に「ひらもうミュージアム」がオープンしました。数年来話題に上がっていたミュージアム構想を耐震工事が終了した本校舎への引っ越しを機に実現させたものです。職員に呼び掛けると、校舎内、寄宿舎のあちらこちらから本校の111年の歴史を物語る貴重な品々が新たにたくさん発掘、発見されたのです。  これまでも金庫に保管されていた明治時代の「盲人学校設立趣意書」などの重要資料に加えて、新たに発見された大正時代の生徒の成績表だったり、点字に関する年代物の機器類や、手作りの触察用教材教具など、本校が積み上げてきた歴史を間近に見て体験できる資料館となっています。  「リリーン」と懐かしいおとを出すダイヤル式黒電話の内線があったり、木製の学習椅子や机が置かれていて、昭和レトロな懐かしい雰囲気が漂っています。  毎年、「秋山博」展を開催して平塚 盲 学校の歴史を大切に保存し続けている、金目エコミュージアム(代表米村康信氏)のみなさんも参加して、オープニングセレモニー・テープカットが行われました。 「「校主」 秋山博先生の写真」  それではまず、「校主」 秋山博 先生に関する展示の紹介からお話ししましょう。秋山博先生ってどんな人だったのでしょうか?  ここに一枚の写真額があります。時代は明治。「私立なかぐん盲人学校女生徒寄宿舎」という木製の看板が掛かっている二階建ての木造の旅館のような建物があります。その前に羽織、袴姿の先生がいらっしゃいます。このかたが秋山博先生です。これは血筋のかたが大切に保管されているものを複写させていただいた秋山博先生ご自身の貴重な写真です。秋山先生を紹介するときにはすべてこの写真を用いられているほど、大切な一枚です。  さて、秋山博先生は腕の良い鍼灸師として知られ、治療所には県内外からの患者が列をなし、近所に泊まり込んでまで治療を乞うほどでした。  盲人への学問の機会と職業的自立の道を築くために、明治43年(1910年、今から111年前です)4月9日、秋山先生によって、平塚市、今でいう南金目(当時はなかぐん金目村)に私立なかぐん盲人学校が誕生しました。私立というのは先生たちが私財をなげうって、作られた学校だったということです。  この時の生徒は僅か7人。その学校の校長には伊達とき氏が就任しました。秋山先生はあえて「校長」とはならず、「校主」となりました。先生は亡くなるまで無償、お金を取らないで実技を教え続けたということです。 「秋山先生のレリーフ」  これは本校舎の正面の玄関に置いてある、秋山先生のレリーフです。  100周年の記念事業で、本校舎玄関入ってすぐ左手に設置されました。ボタンを押すと音声ガイドが流れ、秋山先生の功績を紹介します。そのアナウンスは最後に「現在、そして将来にわたり、平塚 盲 学校に関わる者は、苦難の中で開校し、学校の存続に力を尽くした、秋山の志を胸に刻み、未来へと継承していきたいと思っています。」とのことばで締めくくられています。苦難の中で開校し、学校の存続に尽くした秋山先生の心を胸に刻み、未来へ継承していくのが私たちの大切な使命であるということです。 「秋山先生の紙芝居」  さて、先生はなんと、紙芝居にもなっています。「山なみ晴れて」〜この紙芝居は先程紹介した、金目エコミュージアムのメンバーが「地元の偉人の功績を子供達に伝えたい」という思いから、盲人教育の先駆者で、現在の平塚 盲 学校の創立者である秋山先生の没後100年を記念して、2018年に制作されたものです。なお、タイトルの「山なみ晴れて」というのは本校の校歌からの一節からとられました。 「秋山先生のビデオ」  秋山先生は紙芝居だけでなく、ビデオにもなっています。 「平塚の福祉教育の先駆者」と題するDVDは平塚市広報番組として2010年に制作され、放映されたものです。幼い時に失明し、苦労を重ねて、名はり医となった秋山博。その後私財を投じて「私立なかぐん盲人学校」を開設します。今もこの秋山博の精神を受け継ぐ人たちを通して、平塚の福祉の原点を探っていくという15分程の内容になっています。ミュージアム内でいつでも見ることができます。お時間のある時に、是非、見てみてください。 「『をりをり草』から秋山先生のエピソード」  さて、秋山先生の素晴らしさを紹介するのに一番いい資料がこの「をりをり草」という随筆に描かれたものです。明治45年に出版された「婦人世界」という雑誌に、村井弦斎という作家が連載していた随筆「をりをり草」のなかで先生が紹介されました。村井弦斎という人は今平塚の名物になっている弦斎カレーパンや弦斎祭りで有名な人です。その一節から紹介しましょう。  この秋山博氏という鍼医は、相模国の隠れた素晴らしい人で、その人格なること実に敬服すべきものがあります。  秋山氏の鍼といっては相模一国に有名なるのみならず、遠く甲州信州駿州尾州つまり、山梨、長野、静岡、愛知その辺から治を乞いに来る、治療して欲しい患者が金目村へ群衆、みんな集まってきて、金目村の旅館は秋山氏のために生活しているというくらいです。  また、学校のことも書いてあります。盲人学校を起して不幸なる盲人の人たちを救済せんと、数年前よりこの大志願を立て、多忙にして寸暇無き身を顧みず、独力を以て東西に奔走し、遂に四年以前、金目村に一つの盲人学校を起しました。と紹介しております。  さらに大変面白い先生のエピソードが紹介されています。  ある婦人がしきりに腰が傷むと言って、秋山氏の鍼医に治療を受けに行ったところ、氏はその患部を検査し 「これは容易ならぬ病気だ。腰の深部 深いところに膿が少し、溜まっている。鍼の治療では効がないから早くいいお医者さんのところへ行って、膿の排出してもらえ」と申しました。その婦人は驚いて早速ある医師の元へ行き、秋山氏がこう申しておりましたから膿を取って下さいと言いました。 その医者は仔細に検査をして、嘲笑って 「鍼医如きが何をわかるものか。膿などは決してない。これは神経病だから、薬を飲め。」と言って、薬をくれました。その婦人はその医師にかかって、3カ月ばかり治療を受けましたが、一向に効果がありません。ほかの医師に診て貰っても、やはり曖昧で膿があるとはいいません。それから秋山氏に相談しますと、秋山氏は再び検査して「いやどうしても膿があるに違いない。自分も病気研究のためだから、一つその医師に面談して意見を聞いて見よう 」とその婦人と一緒に自分を嘲笑った医師を訪ねて行きました。その医師といろいろ診断上の話をし、ともかくも婦人の患部へ探りを入れて、膿の有無を検査してくれたまえ。膿がなければ、どこまでも自分が謝罪するし、もし、膿があったら早く排除して婦人の難儀を救ってやりたいと、立ちあいの上で、患部へ探りを入れました。案の定、膿が出て来て、カリエスの初期だったとわかりました。ここにおいてその医師がおおいに自らの不明を秋山先生に謝ったそうです。  つまり、秋山先生は鍼の治療が得意だっただけではなくて、これはそれでは治らない病気だ、これが原因のはずだ、とわかる。それは専門家が見てもまだ気が付かない、ちなみに秋山先生が胃がんですねと超早期の胃がんと診断した人を、専門医が見たところ、その半年後にようやく胃がんだと分かったという例があったくらい触診で胃がんも発見することもできる というエピソードも紹介されています。  ですから、秋山先生の元には、鍼・灸の治療だけではなくて、なかなか他のお医者さんにかかっても治らない病気の人も、秋山先生に診て貰いたい、この「をりをり草」で全国的に紹介されたものですから、さらに全国的に有名になり、先生の所へ来る人も大勢いたそうです。治療も朝一番から夜の遅くまで、12時過ぎまで一人ひとり丁寧に見てあげた。しかもお金がない人も本当に安いお金で治療を施したそうです。その中で、盲人の自立のための職業として、按摩・マッサージ・指圧師、鍼・灸の技術を身につけることはもちろん、一般教養の素養も育成していかねばならない、自分の後継者を手作りで育てようとせつに願って自ら私財を投げうって立てたのが「私立なかぐん盲人学校」だったわけです。地方からくる生徒たちもいたので、寄宿舎も同時につくられました。そういう意味で111年の歴史を寄宿舎も持っているわけです。寄宿舎費用も大変安い料金で、先生は殆ど自分の身を削って、生徒たちを育てていったという本当に素晴らしい先生だったわけです。その先生があったればこそ今の平塚 盲 学校があると言って過言ではありません。従って、今学校に学ぶ人たちは、先生の素晴らしい理想、行動をしっかりと学んでその後継者として勉強していきたいものです。 「なかぐん盲人学校基金寄附名簿」  これは「設立寄附者名簿」です。盲人学校を作るときの資金を寄付で集めたそうです。それも秋山先生自ら歩き回って、多くの人から少しずつ集めるという方法で寄付をいただいたとのことです。盲人学校を作るために寄付された人の名簿が今も残っています。111年間、本校に大切に保管されています。大正時代の生徒の成績ひょうもしっかり残されています。 「仲村製標準点字器」  さて、視覚障害教育に関する触れる展示を紹介していきましょう。  これは木製の点字盤です。仲村製標準点字器と言いますが、明治34年の秋、金物職人だった仲村豊次郎さんのところへ治療に来ていた盲人から点字器が不足して困っていることを聞き、心を痛めた豊次郎は意を決して点字器の試作研究に乗り出します。出来上がった製品が絶賛され、以後「仲村家」は点字器具を作製する業者となりました。  この木製の点字器は最も普及した標準点字盤のベストセラーですが、現在では製造されていません。プラスチック製に比べて木のぬくもりが良かったといわれています。   「ライトブレーラー」  これはライトブレーラーという点字器です。パソコン点訳が普及する以前に活躍した点字タイプタイラー。なるべく安い価格で持ち運べる点字タイプを提供したいという経営者の方針で開発され、2016年の生産終了時も2万円台の低価格でした。6つのキーの形と横に動く姿から「カニタイプ」と呼ばれて愛されてきました。   「ナカムライター」  次は点字器製作のトップメーカー、仲村点字器製作所(創業明治34年)によるナカムライターです。昭和15年、三代目茂男氏が製作に本格的に参画し、初代豊次郎氏、二代目賢次氏の指導を受け、伝統的な技法に基づく点字器類の製作に従事しました。昭和23年、このナカムライターを製作販売します。優れた点質の点字がリアルなタッチで軽快に打てて、点字が上に出るのですぐ読めるのが特徴です。一方、頑丈なために重くて持ち運びが不便、手作りで時間がかかるため価格も高くなりますが、これらを補って余りある価値ある製品といわれています。   「足踏み式点字製版機」  さて、次は足踏み式点字製版機、つまり点字印刷を行うための製版機です。二つ折りの塩ビ版や亜鉛版に足踏みで点字を打ち、原版を作ると中へ紙を入れて、ローラーで圧をかけると点字通りに紙がギュッと押しつぶされて、点字を書いた紙が何枚も印刷できるという仕組みです。  本校の先生も盲 学校の生徒だった時に、これで生徒会の冊子を作っていたとのことですが、最後ローラーの中に入れて印刷する時に自分のネクタイを一緒に巻き込んであやうく首を絞めつけられそうになったそうです。そんな思いをしながら、先輩たちは印刷をしたそうです。 「パーキンスブレーラー」  これが今も使われている現役のパーキンスブレーラーです。これはアメリカの盲 学校、パーキンス盲 学校で作られたものです。パーキンスというのはその学校を設立した時の人の名前から取っているそうです。これが大変頑丈で、重くて持ち運びが不便なのですが、点字が表面に出てくるために、タイプしながら文章を読むことができるという特徴があります。1951年に開発されてから世界で広く一番使われるようになり、現在もその形は大きく変えていません。 「レーズライター」  これは、レーズライターです。点字ではなくて、何か図を書きたいとか、あるいは文字、漢字を書きたいとか、絵を書きたいとかいう場合に、特殊なレーズライター用紙をセットして、ボールペンなど(書けなくなったボールペンが一番いい)で書くと、書いたものが浮き上がってきます。書いた通りに線が浮き上がるので触るとその図を読み取ることができます。    「カナタイプライター」  これはカナタイプライターというカナ文字を打つタイプライターです。まだ、パソコンもワープロもなかった時代に、カナ文字表記の技術による視覚障がい者の職業的自立の可能性をひらこうとする動きがありました。日本盲人職能開発センターの開発者である松井新二郎氏は、カナタイプの普及とカナタイプ速記者の養成計画を実践しました。松井氏が主唱した新職業訓練課程「カナタイプ科」が、1968年に国立東京視力障害センターに設置され、盲 学校でもコミュニケーション教科でカナタイプを指導するようになります。   「オプタコン」  視覚障害者が可能性を広げる技術として、松井氏が普及に力を注いだのは「オプタコン」(視覚読書器)でした。小型カメラで文字を書いてあるとおりに読むというものです。100本以上ピンが並んだ触知盤に指を置きます。そのピンがカメラで読み取った文字や図の形を指先に振動で教えてくれる、カメラを移動させながら、左手の指で振動するピンの形を読み取っていけば、一般の文章が直接「読める」というものです。まだ一般的にパソコンもなかった時代の話です。オプタコンは、パソコンにとって代わられるまで、盲 学校の授業準備や理学療法士のカルテチェックに利用され、全盲のオプタコン利用者からは、コンピュータープログラマ、教師や公務員が誕生しました。 「音声電卓」  次は日本が誇る世界の技術。シャープが開発した音声電卓です。 これは、電卓そのものが画期的なものだったのですが、さらに全部音声で読み上げてくれます。35+58=93 と全部読み上げてくれる「しゃべる電卓」 です。この読み上げる技術は時計や電子レジスタにも搭載され、視覚障害者にとって、とっても役立つ技術として応用されていきました。 「ダイヤル式黒電話」  これは本校で実際に使われていた内線用の黒電話です。ダイヤル式で、ジーコ、ジーコと回すものです。ダイヤルの真ん中に、視覚障害者用に、3番、6番、9番のところが、わかるようなしるしが付いています。いちいち1から数えなくてもダイヤルの数字がわかるようになっているわけです。  ミュージアムの内線には今回わざわざこの黒電話を復活させて、使えるようになっています。   「視覚障害者用そろばん」  これは視覚障害者用のそろばんです。実際に使った人もいるのではないでしょうか。これも開発に関わった人が多くいます。東京盲 学校の先生だった岸高先生が作ったもので、普通のそろばんだと珠が滑って、読み取れなくなってしまいます。それをわかるように、足袋のこはぜのような珠がパチパチパチと向こう側に倒れるようにしたものです。これを鈴木栄さんが「明星式そろばん」としてプラスチックで作り全国に普及しました。   「新幹線ひかり号模型教材」  これは 「ひかり号」です。この団子鼻の形は0系という初代の車両です。前回の東京オリンピックの開催直前、昭和39年10月1日、夢の超特急である東海道新幹線が開業しました。10月1日に開通する前に、乗った人がいます。それが本校の全生徒でした。  開通直前の9月20日、本校全児童生徒120人が試乗に招待されました。教員も家族全員も全部で約300人が招待されて、小田原―東京間往復「超特急ひかり号」の旅を楽しみました。これは当時のPTA会長であったかたが国府津に住んでおり、当時の国鉄の石田総裁とご近所さんであった縁で実現しました。先日ミュージアムを訪れた本校の卒業生が、「実は、私も乗ったんですよ。なにが驚いたかっていうと、冷たいお水が飲めるんですよ。しかも、紙コップで飲めるんですよ。」それが珍しくて楽しくて、何杯も飲んだそうです。   「スライドショー 私たちの学校」  本校に残っていたソニーの白黒ブラウン管テレビを改造して、創立50周年を記念して作られた昭和34年当時の生徒たちの様子を収録したアルバム「私たちの学校」がスライドショーで見ることができるようになっています。  当時の生徒は大勢いて、昭和35年には史上最多の143名もいましたので、大変賑やかで学校行事も盛んだったのです。活気ある様子がよくわかります。   「盲人用もぐさ点火器」  さて、これは盲人用もぐさ点火器です。お灸療法で、もぐさに安全に点火するための装置で、この点火器は本校の理療科教員たちが、研究・開発し何回かの試作検討を経て、鈴木医療器株式会社によって製品化されました。はじめは懐中電灯を改造したものやペンタイプのものを作ってみましたが、当時の電池だと十分な火力を得られなかったので、電気式に改良しました。この研究開発は『理療の科学』にも論文掲載されています。   「その他の展示物」 ・日本点字の父 石川倉次先生の写真 ・点字発明者 ルイ・ブライユの胸像写真 ・神奈川県の県章(触察用自作教材) ・神奈川県の行政区分地図(同) ・昭和時代の木製椅子・机・教卓 ・鍼灸経絡経穴図 ・筋肉系解剖図 ・杉山検校の像 ・古代『九鍼』模型(昭和11年製) ・大正時代の生徒成績表綴り ・触察用電気回路図とマイクロフォン ・「盲教育」の創刊号 ・「理療の科学」の創刊号 ・昭和時代の教科書・参考書  等 平盲ミュージアム、入場無料で、いつでも見に来てください。