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更新日:2021年3月3日

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今改めて、校訓「礼節・信義・根性」を考える

神奈川県立相模原高等学校 教諭 山内 次雄

研究紀要「県相の風-教育活動と研究・実践の記録2006-」(2007年3月28日発行)より

序章


各クラスの黒板の上に校訓「礼節・信義・根性」が掲げてあります。が、それが実際に目に留まり、その言わんとすることを理解できているのかどうか、はなはだ疑問に思う挙動が生徒諸君の間に多々見受けられます。そのような訳で、これから様々な視座から校訓の意味を考え、私なりに解釈していくことにします。まずは、みなさんに校訓の精神ともいうべきものを考えてもらうためには材料提供をしておく必要があるでしょう。
初代校長の小泉隆先生は相高新聞(県相新聞の前身)第5号(昭和40年8月16日発行)に掲載された「校訓について」と題する論説で次のように述べています。

「形にあらわれなければ礼は認めないというが形式は先ず精神が整えば自ずからにじみ出るはずである。世の中が封建社会であろうと、民主社会であろうと、人間が互いに共同社会を営む上に欠くことのできない、またすべての基盤となるものが礼であると確信する。学問をするにせよ、運動に励むにせよ、礼の精神を涵養しなければその成果を期しがたい。こういう意味合いから、先ず第一に礼節を掲げたのである。」

このように小泉先生は社会生活を営む上での、とりわけ「礼」の重要性を説いていますが、もちろん、学校という場を一つの共同社会と考えてのことであることは言うまでもありません。さらに、この一節の前段で『論語』の中で顔淵(がんえん)が孔子に「仁」とは何かと問い、それに孔子が答える件を引き合いに出しています。その件を小泉先生は次のように解説しています。

「孔子は之に次のように答えた。己をせめて礼にかえるを仁となすと…中略、更に顔淵の商(ママ)に対して孔子は、礼にあらざれば視ることなかれ、礼にあらざれば聴くことなかれ、礼にあらざれば言うことなかれ、礼にあらざれば動くことなかれ、と。つまり礼にはずれたことは見えない、聞かない、言はない、しない、ということで、生活上のこまかい具体的な規範が礼である。」

この解説に相当する部分の原文は読み下しでは次のようになります。

「顔淵仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復するを、仁と為す。一日己に克ちて礼に復すれば、天下仁に帰す。仁を為すは己に由る。人に由らんや、と。顔淵曰く、其の目を請い問わん、と。子曰く、礼に非ざるもの視ること勿れ、礼に非ざるもの聴くこと勿れ、礼に非ざるもの言うこと勿れ、礼に非ざること動くこと勿れ。顔淵曰く、回不敏と雖も、請う斯の語を事とせん、と。(現代語訳:顔淵が仁とは何でしょうか、と質問した。孔子はこう教えられた。『利己を抑え、〔人間社会の〕の規範(礼)に立つことが仁である。ひとたび利己を抑え、規範を実行するならば、世の人々はみな、〔それを見習って忘れていた〕仁(人の道)を実践することになるだろう。人の道を実践するのは、己の覚悟しだいなのであって、他人に頼ってできるものではない』と。顔淵はおたずねした。『その実践内容はどのようなものでありましょうか。お伺いします』と。孔子はこう述べられた。『規範でないもの、それを視るな、聴くな、言うな、行うな』と。顔淵は『私め、至りませぬが、そのお言葉を第一として生きて行きます』と答えたのであった。)」(『論語』)

第一章 礼節とは

 小泉初代校長の「世の中が封建社会であろうと、民主社会であろうと、人間が互いに共同社会を営む上に欠くことのできない、またすべての基盤となるものが礼であると確信する。」という件を読んだ時、真っ先に頭に思い浮かんだのは聖徳太子の十七条憲法でした。
ご存知のように十七条憲法の第一条は「和(やはらか)なるを以て貴(たふと)しとし」という有名な言葉で始まります。この「和」は第一条から第十七条までを貫く、コンセプトであると同時に思想でもあります。当時の時代背景を意識した、あるいは逆説的に反映した言葉と言っていいでしょう。
当時は推古天皇の治世ですが、聖徳太子は推古即位と同時に摂政となりました。推古元(593)年のことです。推古の即位は、歴史上の類まれな天皇暗殺事件、すなわち蘇我馬子による崇峻天皇暗殺を受けてのことでした。また、この事件に先立って、崇仏・排仏論争の末に、用明2(587)年、物部氏が蘇我氏に滅ぼされる事件もありました。このように表に裏に血なまぐさい権力闘争が繰り返されていた時代に、自らが物部一族を滅ぼす側に加わった聖徳太子が「和」のコンセプト、あるいは「和」の思想を十七条憲法に注ぎ込んだことに注目する必要があります。しかし同時に、そのまま「和」の精神を推し進めていけば、その時に権力の中枢にあって体制を維持する側の蘇我氏との微妙な関係が将来的に危ういものになっていくということも想像に難くありません。実際、後年、父の遺志を受け継いだ山背大兄王一族が蘇我入鹿に滅ぼされた事件(643年)は、その微妙な関係の均衡が崩れたことを象徴的に物語っているような気がします。

さて、聖徳太子は憲法十七条を制定する前年、推古11(603)年に冠位十二階の制を制定しています。これは徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けて、大徳・小徳・・・大智・小智という具合に十二階にしたものです。もちろん、儒教の根本理念である仁・義・礼・智・信を意識したものでした。「徳」とは、その他の5つを包括した最高位の理念を意味すると考えていいでしょう。つまり、仁も礼も信も義も智も、それぞれが徳を頂点とするヒエラルキーの下部構造の徳目だということです。ここで大事なのはその5つの徳目のヒエラルキーが儒教の本来の順位付けと異なっていることです。そしてそこに聖徳太子の進取の精神、あるいは革新的な思想が注入されているのです。
儒教ではもともと礼の順位は義の後になっていますが、冠位十二階の制では仁の次に来ています。礼は、特別に付け加えられた徳を除けば実質第二位ということになり、いかに聖徳太子が礼を重要視したのかがわかります。そのことは十七条憲法の本文からも読み取れます。実に第四条から第八条までが「礼」を念頭においての条になっています。その第四条で「礼」を次のように規定しています。

四(よつ)に曰はく、群卿百寮(まへつきみたちつかさつかさ)、禮(ゐやび)を以て本(もと)とせよ。其れ民(おほみたから)を治むるが本、要(かなら)ず禮に在り。上禮なきときは、下齊(ととのほ)らず。下禮なきときは、必ず罪有り。是を以て、群臣(まへつきみたち)禮有るときは、位(くらい)の次亂(ついでみだ)れず。百姓(おほみたから)禮有るときは、國家(あめのした)自(おの)づから治る。(現代語訳:四に言う。群卿(大夫)百寮(各役人)は礼をもって根本の大事としなさい。民を治める根本は礼にある。上に礼がないと下の秩序は乱れ、下に礼がないときは、きっと罪を犯す者が出てくる。群臣に礼があるときは、秩序も乱れない。百姓に礼のあるときは、国家もおのずから治まる。)」

この第四条は明らかに身分の上下関係を前提に宣言されています。その意味では、まさしく儒教的であり、現代人の意識とは乖離した、はなはだ時代錯誤的な思想に即しているように思えます。しかし、当時の時代背景・状況を考えれば、十七条憲法以降の律令制の理念がすべて後退の一途を辿ったと言ってもいいほどに第四条をはじめとする十七条憲法と冠位十二階の制には革新的、急進的な思想の息吹が感じられるはずです。その一例が、前述したように、十七条憲法の思想と密に連動している冠位十二階の制の仁・礼・信・義・智の順位付けに見られました。もう一例は、その思想を百姓(おほみたから)にまで及ぼそうという意志が表れ、こうして『日本書紀』という公の記録に庶民が登場してきたということです。そのことは、臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・首(おびと)・直(あたい)・史(ふびと)・村主(すぐり)・造(みやっこ)・県主(あがたぬし)などの姓(かばね)でがんじがらめにされ、徹底的な世襲・身分制が敷かれていた当時にあっては、収穫物をただ搾取され、労働や兵役に駆り出されるだけの百姓が群卿百寮と同じ国家の構成員として認知されたということを意味します。したがって、聖徳太子は十七条憲法において儒教の精神をそのまま取り入れたのではなく、前述の徳目の順位の変更と同様、大きな修正を加えたことになります。なぜなら、儒学で聖人の述作とされている五経の一つである『礼記(らいき)』では「禮は庶人に下らず、刑は大夫に上らず(礼は庶民まで及ぼすことはできないし、刑は支配層には及ばない)」とあり、被支配層には礼など教えても無駄であるという捉え方をしているからです。一方、聖徳太子が掲げた理想国家は支配層のみならず被支配層の民・百姓にも礼が浸透してはじめて成立するという思想に基づいていたと言えます。
このように、聖徳太子が十七条憲法と冠位十二階の制に注ぎ込んでいる精神には時代を超えて、「世の中が封建社会であろうと、民主社会であろうと、人間が互いに共同社会を営む上に欠くことのできない、またすべての基盤となるものが礼であると確信する。」と語る小泉初代校長の「礼」の精神にみごとなまで通じてくるものがあります。

序章にて紹介しましたように、小泉先生は「仁」を問う弟子の顔淵に対して孔子が答える一節を取り上げて「礼」の意味を説明しようとしました。その件の始まりはこうでした。「顔淵仁を問う。子曰く、己に克ちて礼に復するを、仁と為す。」孔子は、無私になって礼を実行すれば、それが仁だと言っているのです。つまり、礼は仁の前提条件であるということです。それでは礼が目指すところの仁とは一体何なのでしょうか。いろいろな定義づけができると思います。因みに、『広辞苑』には「愛情を他人に及ぼすこと。いつくしみ。おもいやり。博愛。慈愛。」とあります。日本人的心情に照らし合わせて一言で言えば、「真心(まごこころ)」に収斂(しゅうれん)してくるような気がします。そしてその先に十七条憲法の第一条の冒頭の「和」があるということになります。十七条憲法では仁という言葉は使っていませんが、冠位十二階の制の仁・礼・信・義・智の順に呼応して十七条のそれぞれの内容が展開している以上、聖徳太子はあえて「仁」を「和」と言い換えたということになります。

「一つに曰はく、和(やはらか)なるを以て貴(たふと)しとし、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。人皆党(たむら)有り。亦達(さと)る者少し。是を以て、或いは君父(きみかぞ)に順(したが)はず。乍(また)隣里(さととなり)に違(たが)ふ。然れども、上和(かみやはら)ぎ下睦(しもむつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、事理(こと)自(おの)づから通(かよ)ふ。何事か成らざらむ。(現代語訳:一に言う。和を大切にし、もめごとを起こさないようにしなさい。人は誰でも仲間がいる。だが、仲間の意味をしっかりと悟っている者は少ないものである。だから君主や父に従わない者がいる。また、隣人と仲違いする者もいる。しかし、上の者と下の者が真心をもって睦まじく話し合えば、自ずと道理が通い合い、物事は成就する。)」(『日本書紀』)

孔子と顔淵の「仁」をめぐるやりとりと、この第一条の趣旨を汲み取れば、「忤(さか)ふること無き」ように、そして「上和(かみやはら)ぎ下睦(しもむつ)び」るためには「己に克ちて礼を復する(利己を抑えて、すなわち無私になって、礼を実行する)」必要があるということになります。十七条憲法では、「仁」という言葉こそ出てきませんが、仁・和・礼は三位一体の関係で捉えられているはずです。言い方を変えれば、和は仁と礼を内包しているということになります。
さて、みなさん、ご存知でしょうか。県相の職員室では朝の打ち合わせ前に職員が全員起立して、校長の「おはようございます」の挨拶に対し、全員が「おはようございます」と挨拶を返す慣例があるのです。まさしく、これこそ間違いなく小泉初代校長が自らの礼(節)の精神に基づいて実践したものの一つだと思います。そしてそれが40年以上経った今でも引き継がれているのです。当時の小泉校長が職員に対して深々と頭を下げて一礼をする姿が髣髴としてきます。

校訓の二番目の標榜「信義」の意味を十七条憲法の精神に沿って探っていけば、小泉初代校長の「礼(節)」の精神はさらに明らかになってきます。もちろん、単に聖徳太子の徳目の順位の変更により礼の次に信・義と続くというだけの話ではありません。とはいえ、このこと自体も単に偶然の一致とは言えないのかもしれません。第二章にてその「信義」の意味を探っていきたいと思います。

​第二章 信義とは

 第一章にて、「礼」とは何か、ということで主に十七条憲法を拠り所にしてその意味を探りました。聖徳太子が理想国家を築き上げようと礼を殊の外重要視したことに、時代を超えて、小泉初代校長が掲げた校訓の一つ「礼節」の精神に通じるものを見つけたような気がします。
聖徳太子は本来の儒教の根本理念である仁・義・礼・智・信の順位をあえて崩して、冠位十二階の制では仁・礼・信・義・智の順に変えたのでした。さらに、十七条憲法では仁という言葉は使わずに、和という言葉を使って、それを礼の実行を通じて目指すべき理想国家の理念に掲げたといっても過言ではないでしょう。そういう意味では礼は和の前提条件であるということになります。そしてこのことは孔子が顔淵に「己に克ちて礼に復するを、仁と為す」と答えたときに、礼が仁の前提条件であるのと同じ意味です。したがって、第四条で「群卿百寮(まへつきみたちつかさつかさ)、禮(ゐやび)を以て本(もと)とせよ。其れ民(おほみたから)を治むるが本、要(かなら)ず禮に在り」とあるのは、きわめて示唆的です。

さて、和の前提条件が礼であるとすれば、礼にもその前提条件となるはずのものがあると考えるのは理の当然です。形だけの、うわべだけの礼では、せいぜい疑心暗鬼を取り繕うのが精一杯でしょう。聖徳太子は第九条でその理の当然に応えてくれています。

「信(まこと)は是(これ)義(ことわり)の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信有るべし。其れ善悪(よしあし)成敗(なりならぬこと)、要(かなら)ず信に在り。群臣(まへつきみ)共に信あらば、何事か成らざらむ。群臣信无(な)くは、萬(よろづ)の事(わざ)悉(ことごと)く敗(やぶ)れむ。(現代語訳:信は道理の根本である。何事を為すにも信がないとうまくゆかない。物事の善し悪し、成否は要は信にある。群臣に信があれば何事も成就できる。群臣に信がないと万事悉くうまくゆかないだろう。)」(『日本書紀』)

ここでは群臣に限って呼びかけているのですが、その内容は人間関係一般に適用できるものです。人間関係の妙なる機微としての「信」を、道理(=人の道)を表す「義」の上においている、という意味では、「礼」についてと同様、これまた本来の儒教精神の根本理念に照らし合わせれば、画期的な、急進的な発想と言えます。本来第五位、すなわち最下位の「信」を第三位に上げ、しかも本来第二位の「義」の上に置き、「信は是義の本なり」と言い切ったことに大きな意味があります。
ところで、聖徳太子がこの第九条で言うところの「義」は人間関係、とりわけ上下関係という道理のことであります。したがって、要は、いくらトップダウン(上意下達)方式を導入してもそこに信頼関係がないと、どんなに立派な企画・立案であっても何事も満足に成し遂げることはできない、という趣旨になります。

第九条に加えて第十条と第十一条が「信」についての条文となっています。第九条が「信」の理念の条文であるとすれば、第十条と第十一条はその理念の具体的運用についての条文ということになります。この二つの条文を読むと、現代の社会にもそのままそっくりあてはめることのできる、人間心理に対する深い、普遍的な洞察力を聖徳太子がもっていたことに驚きを覚えるばかりです。時代を超えて千四百年後の今日にも相通じる人間の性(さが)が透けて見えてくるのです。

「十に曰く。忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもへりのいかり)を棄てて、人の違ふことを怒らざれ。人皆心有り。心(こころ)各(おのおの)執れること有り。彼是(かれよみ)すれば我は非(あしみ)す。我是(われよみ)すれば彼は非(あしみ)す。我必ず聖に非ず。彼必ず愚に非ず。共に是(これ)凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あし)き理(ことわり)、誰(たれ)か能く定むべけむ。相共に賢く愚かなること、鐶(みみかね)の端无(はしな)きが如し。是を以て、彼人(かれひと)瞋(いか)ると雖(いえど)も、還りて我が失(あやまち)を恐れよ。我独(ひと)り得たりと雖も、衆(もろもろ)に従ひて同じく挙(おこな)へ。(現代語訳:十にいう。心の怒りを絶ち、怒りの表情を出さず、人が自分と違うからといって怒ってはならない。人にはそれぞれ心というものがある。誰でも自分にこだわりをもつことがある。相手が良いと思うことを自分は良いとは思わないことがある。自分が良いと思うことを相手が良いと思わないことがある。自分が必ずしも優れているとは限らないし、相手が必ずしも愚かとは限らない。相手も自分も共に凡夫なのである。是非の理を誰が間違いなく定めることができようか。お互いが賢くもあり愚かでもあり、端のない環のようなものだ。そういう訳だから、相手が怒ったら自分が過ちを起こしたのではないかと省みるがいい。自分一人正しいと思っても、みんなの意見も尊重し行動するがいい。)」(『日本書紀』)

この第十条のみに焦点を当てれば民主主義の根幹ともいえる精神が謳われているような気さえします。個人の優劣ではなく個人そのものの尊重に力点を置き、お互い凡夫であるから相手の意見に十分に耳を傾けて是々非々の姿勢を貫くことを求めています。したがって、聖徳太子が豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)とよばれ、『日本書紀』の中で「現代語訳:一(ひとたび)に十人(とたり)の訴(うたへ)を聞きたまひて、失(あやま)ちたまはずして能(よ)く辨(わきま)へたまふ(一度に十人の訴えを聞かれても、誤られなく、先のことまで見通された)。」と表現されているのも合点がいくというものです。そして、この条の最後に「我独(ひと)り得たりと雖も、衆(もろもろ)に従ひて同じく挙(おこな)へ。」とあるのは、「信」がなければ物事の善し悪しもないし何事も成就できない旨を宣言した第九条の「其れ善悪(よしあし)成敗(なりならぬこと)、要(かなら)ず信に在り。」という他者への「信」を敷衍させていった末の論理的帰結とも言えます。

第十一条では、信賞必罰に言及し、それを適用するに当たっての公明正大さを求めています。功績のない者に賞を与えたり、罪のない者に罰を与えたりするのは人間の信頼関係を損ねる要因であると同時にひいては國家(あめのした)の信用失墜にもつながることになり、「功過(いさみあやまり)を明(あきらか)に察(み)て、賞(たまひもの)し罰(つみな)ふること必ず當(あ)てよ(現代語訳:功績・過失をはっきり見極め、賞罰は必ず正当に行え)。」と戒めています。

さて、第十二条から第十四条までは「義」に言及し、道理(人の道)を説いています。第十二条の「國(くに)に二(ふたり)の君(きみ)非(あら)ず。民(おほみたから)に両(ふたり)の主(あるじ)無(な)し。率土(くにのうち)の兆(おほみ)民(たから)は、王(きみ)を以て主とす。」の件を今日の社会状況にそのまま結び付けるのはさすがに飛躍のし過ぎになるでしょう。しかし、この件を除けば、他の部分は今日でも十分説得力をもつものとなっています。すなわち、第十二条では権力の濫用を戒め、第十三条では自分の職務に責任を持ち、それを全うする心構えを説いています。さらに、第十四条では「義」を貫くのを阻むものとしての「嫉妬」を挙げています。ここでは群臣百寮(まへつきみたちつかさつかさ)に対しての戒めの体裁をとっていますが、「嫉妬」は古今東西遍く万人の中に潜んでいる情念であることは言うまでもありません。

「我既(すで)に人を嫉(うらや)むときは、人亦(また)我を嫉む。嫉み妬(ねた)み患(うれへ)、其の極(きはまり)知らず。所以(このゆえ)に、智(さとり)己に勝るときに悅(よろこ)びず。才(かど)己に優るときは嫉妬(ねた)む。(現代語訳:自分が人をうらやめば、ひともまた自分をうらやむ。うらやみねたむ弊害は際限がない。人の知識が己にまさる時は喜ばず、才能が己に優る時はねたむ。)」(『日本書紀』)

「信義」の意味は辞書的に解釈すれば、約束を守り義務を果たすこと、といったようなことになるだろうと思います。しかし、小泉初代校長が校訓の第一番目の標榜「礼節」の意味の拠り所を『論語』の孔子と顔淵の「仁」をめぐるやり取りに求めている以上、「信」と「義」についてもそれぞれの儒教的な意味を踏まえて第二番目の標榜「信義」を検証する必要があるでしょう。そのような訳で、「信義」の意味を解き明かそうと第九条の「信は是義の本なり」から第十四条の「嫉妬」の件までを読み進んできました。しかも、校訓の一番目「礼節」との連関をも念頭においてのことでした。校訓の3つの標榜「礼節・信義・根性」はそれぞれが完全に独立したものではなく、互いを貫く精神があるのです。とりあえずここまでのところ、礼節と信義に相通じ合う精神の一端には触れてもらえたのではないかと思います。
校訓「礼節・信義・根性」を貫く精神にまつわる記事が創立十周年特集号である「相高新聞」第32号(昭和48年11月1日発行)に載っています。創立十周年を記念して体育館とA棟の間に造られた枯山水の庭園について書かれた記事です。”「記念庭園」完成、枯山水に校訓を表現”、という見出しになっています。この記事の書き手は不明ですが、枯山水の庭園の設計者が相原高校の峰尾幸友先生であったことは紹介されています。

「この庭は…、本校の校訓を表現しているのである。右の三つの石が「礼節」を、中央は、どっしりとすえられた大きな石を中心に「根性」を、そして左側の二つと、真ん中の飛び石が「信義」をそれぞれ表している。飛び石が信義を表しているのは、人が飛んで歩くところ、つまり人と人とのふれあいにおいてお互い、心もことばも一致した真心をもとうという意味である。川の流れにたとえれば、右側が上流で、左の方へ水が流れているのである。礼節が人間精神の大本であるとすれば、信義・根性がその具象であるとも言えよう。」
*この記事で言及している右・左はA棟から体育館に向かっての位置関係においてです。

この記事が載った「相高新聞」第32号が発行されたのは、「相高新聞」第5号(昭和40年8月16日発行)で「校訓について」と題する小泉先生の論説が掲載されてからおよそ8年が経過しています。そしてその時小泉先生は故人となっていましたので、そういう意味では枯山水の庭園は小泉先生の遺志の「具象」ともいうべきもので、後世に校訓を記念させるべく造られたものだと言っていいでしょう。
ところで、この庭園をみなさんは今どういう思いで見ているでしょうか。水無きところに水を見、そのせせらぎが聞こえてくるでしょうか。ひょっとしたら、全く目に留まっていないのかもしれません。今度是非じっくり見てほしいと思います。前記した記事にあるように上流から下流に向かって水が流れているように見えるでしょうか。

絶えず行く明日香の川の淀(よど)めらば故(ゆゑ)しもあるごと人の見まくに(現代語訳:絶えず流れる明日香川がもし淀んだままでいたら、何かわけがあるのだろうと、思われるでしょうに。) -『万葉集』巻七 1383-

第三章にて、礼節や信義の儒教的精神と違って仏教的意味合いを多分に含んだ、校訓の第二番目の標榜「根性」の意味を検証してみることにします。そのアプローチは、とりあえずは、みなさんが思い浮かべるような、短絡的な「根性」の精神からは大いにかけ離れたものになっていくことになるでしょう。

​第三章 根性とは

その1.根性のない人はいない

 今日的な用語法で「根性」を捉えれば、その概念の周辺には闘争心、頑張り、忍耐などのイメージが付き纏います。そのイメージを最も如実に物語っているのは「根性なし」「根性がない」という言い回しであると思います。本来、人間には闘争心、頑張り、忍耐などの要素が普遍的に備わっていて、事あれば気合い、気魄でいつでも絞りだせるのだ、ということなのでしょう。そういった気合いや気魄がない場合に「根性なし」あるいは「根性がない」と呼ぶことになります。
ところが、『広辞苑』(岩波書店、第二版)でその意味を調べてみると、「その人の根本的な性質。こころね。しょうね。」(ただし、現在店頭に出ている第五版では転義も載っています)とあるだけです。この意味ではみなさんが日常的に使っている「根性」とは、乖離とは言わないまでも、少なくても容易には結びついてきません。どうしてそういうことになっているのでしょうか。『漢辞海』(三省堂、第一刷)で調べてみると、その経緯(いきさつ)らしきものが見えてきます。一番目の意味として「{仏}人が生まれつき持ち合わせている、善悪両方を行う性質」を意味するとあります。その次の意味として今日みなさんが一般的に使っている意味「{国}ねばり強い精神力」が載っています。それぞれの意味の頭についている略記号については、{仏}は仏教の専門用語、{国}は日本語特有の意味、あるいは和製の漢語、を表すとなっています。つまり、一番目の意味が本義で、二番目の意味がもともとは仏教の用語に含まれていなかった転義であるということなのです。本義、転義いずれにおいても、その意味が発生した由縁というのは、おそらく、地中に張り巡っている草木の根のイメージ、すなわち抜こうとしてもなかなか抜けない執拗さ、にあるものと思われます。因みに、儒教ではこういった草木の根のイメージを「仁義礼智根於心(仁義礼智の四徳は人の心に基礎を置く)」(『孟子』尽心・上)などと表現し、本義に沿った意味で反映させています。
さて、今日でもふだん本義として使われているものとして「島国根性」「根性を入れかえる」などといった言い回しが挙げられます。その本義の実際の用例として夏目漱石の『坊ちゃん』の一節を参考にすることもできるでしょう。「おれ」が天麩羅と団子を食べたことを生徒たちに黒板に書かれたことにまつわる部分です。生徒たちはバッタ事件で校長の前で「おれ」に謝罪したにもかかわらず、天麩羅と団子を食べたことで相変わらず陰口をたたく。そのことに対し、「おれ」は「もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。」と強硬論を吐き、次のように続けます。練兵場(れんぺいば)で祝勝式があるというので狸(たぬき)と一緒に生徒を引率していく場面です。

「おれが組と組の間に這入って行くと、天麩羅だの、団子だの、と云う声が絶えずする。しかも大勢だから、誰が云うのだか分からない。よし分かってもおれの事を天麩羅と云ったんじゃありません、団子と申したのじゃありません、それは先生が神経衰弱だから、ひがんで、そう聞くんだ位云うに極(き)まってる。こんな卑劣な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしても、教えてやったって、到底直りっこない。」(十章)

その2.憲法十七条に根性の意味を探る

 今回は、以上のような視点を踏まえて校訓の第三番目の標榜「根性」の意味を検証していくことにします。さて、その検証をするにあたっては「礼節」と「信義」についてと同様、「根性」についても、十七条憲法を拠り所にすることができるのです。十七条憲法は当時の趨勢からして当然のことでしょうが、儒教以上に仏教の影響を受けています。例えば、その第一条の冒頭で、本来「仁」というべきところを「和」という言葉に言い換えたというのも仏教的な発想から由来しているものと思われます。そして第一条に続く「篤く三寶を敬へ」の冒頭で始まる第二条は、明らかに、「和」の根本理念を仏教に求めることを宣言しているのです。

「二つに曰はく、篤く三寶(さんぽう)を敬へ。三寶とは佛(ほとけ)・法(のり)・僧(ほふし)なり。則(すなは)ち四生(よつのうまれ)の終歸(をはりのよりどころ)、萬(よろづ)の國(くに)の極宗(きはめのむね)なり。何(いづれ)の世、何の人か、是(こ)の法(みのり)を貴(とふと)びずあらむ。人、尤(はなはだ)惡(あ)しきもの鮮(すくな)し。能(よ)く教(をし)ふるをもて從(したが)ふ。其れ三寶に歸(よ)りまつらずは、何(なに)を枉(まが)れるを直(ただ)さむ。(現代語訳:二にいう。篤く三宝を敬うこと。三宝とは仏・法・僧のことである。仏教はあらゆる生き物の最後の拠り所であり、すべての国の究極の教えである。いつの世でも、どんな人であろうとも、この法を崇めないなどということがあろうか。人間はどうしようもない悪人は少ない。きちんと教えれば聞き入れる。三宝を拠り所にしなかったら、どうやって邪(よこしま)な心を正せるだろうか。)」(『日本書紀』)

この当時の推古天皇といい、大臣(おおおみ)の蘇我馬子といい、さらには皇太子でもあり、摂政でもあった当の聖徳太子自身、いずれも蘇我氏の血を引く熱烈な仏教崇拝者です。仏教公伝から52年が経ち、そして崇仏・廃仏をめぐって物部氏が滅亡してから17年が経ち、少なくともこの当時はこの三人はトロイカ体制で強力な仏教推進政策を採っていました。この政策を推進した結果が飛鳥文化となって花開き、そしてこの政策の下でこの3人を筆頭に蘇我一族は栄華を極めていました。とりわけ馬子については、およそ400年後の藤原道長の心境に似たものがあったはずです。

この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたるともなしと思へば (藤原実資『小右記』)

このような時代背景の中で聖徳太子の思想は培われ、養われていったのです。第二条のみならず、第二章で紹介しました第十条もきわめて仏教的な要素を多く含んだ条文でした。そこには、仏教の三毒(人の善心を害する三種の迷い貪欲・瞋恚・愚痴を指す)の一つである瞋恚(しんに)(=心にそわないものをいかり、うらむこと)を念頭においてそれを戒める件があり、また我執を戒め、無我の立場を説く件があります。凡夫(ぼんぷ)などという、明らかな仏教用語も使っています。また、第五条でも「餮(あぢはひのむさぼり)を絶ち欲(たからのほしみ)することを棄てて」などと、これも三毒の一つである貪欲を戒めています。

その3.根性から仏性へ

 ところで、十七条憲法の第一条の冒頭にある「和(やはらか)なるを以て貴(たふと)しとし」の「和」が十七条憲法のコンセプトであり、思想でもある、ということは第一章の「礼節とは」ですでに述べたことです。その際さらに、聖徳太子があえて「仁」を「和」に変えたということにも触れておきましたが、変えたその経緯には仏教が大きく絡んでいました。十七条憲法の内容において仏教がどれだけ重要視されているかは、第二条の「則(すなは)ち四生(よつのうまれ)の終歸(をはりのよりどころ)、萬(よろづ)の國(くに)の極宗(きはめのむね)なり。」の件で言い尽くされているといっても過言ではないでしょう。「四生」とは卵生(らんしょう)(=卵から生まれる鳥などの類の称)・胎生(たいしょう)(=人や獣などのように母胎で成熟する類の称)・湿生(しっしょう)(=蚊などのように湿処から自然に発生する類の称、神話的存在もこれに含まれる)・化生(けしょう)(=母胎または卵を通過せずに、超自然的に突然生まれる、仏・菩薩または天界の衆生の類の称)のこと、すなわち、すべての生きとし生けるものを指します。したがって、この件はあらゆる教えの中での仏教の絶対的な優位性を説いているのです。どんな生き物にも仏性があるはずだから、とりわけ人間であるなら、多少の例外者はいるかもしれないが、どんなに邪まな人間であろうと仏の教えを説けば必ずその仏性に届くのだ、という聖徳太子の人間に対する強い信頼感がこめられているような気がします。太子は、明らかに、『涅槃経(ねはんきょう)』の中で強調される「一切衆生悉(いっさいしゅじょうしつ)有(う)仏性(ぶっしょう)」の教えを第二条に反映させています。継体16(522)年に来日し、蘇我氏の仏教受容に大きな役割を果たしたといわれる司馬達等(しばたっと)は南梁(なんりょう)の人でした。当時、南梁では『涅槃経』が大流行でしたので、当然司馬達等がもたらした仏教はすべてではないにしても『涅槃経』の教えが中心だったはずです。

『大乗涅槃経』の中の一つのエピソードが憲法十七条の第二条の内容と驚くほど符合します。一人の修行者が国王や大臣と対談した折のことを、迦葉(かしょう)菩薩(釈迦十大弟子の一人)が聴衆に説明している場面です。

「ブッダの教えでは、生類にみな仏性があると説かれています。したがって仏性があるので、一切の生類は無量の煩悩を断てば、かならずブッダの覚りを得ることができる。ただし一(いつ)闡提(せんだい)(仏性を信じない者)は除かれる。」

(田上太秀著 「『涅槃経』を読む」講談社学術文庫)

「根性」とは第一義的に仏教の用語であり、『漢辞海』にあったように「人が生まれつき持ち合わせている、善悪両方を行う性質」という定義づけができるとして、そこに「仏性」というコンセプトを注入すれば、「根性」の定義は「人が生まれつき持ち合わせている、善を行う性質」に変質していくはずです。

聖徳太子は不信と陰謀がはびこった、血なまぐさい権力闘争に明け暮れる時代精神の中に身を置いていました。にもかかわらず、聖徳太子はあくまでも人間を信じ、そして愛そうとする強い意志をもって十七条憲法に「和」の精神を注ぎ込もうとしたのです。各々の条文を貫いていっている「和」のコンセプト、あるいは「和」の思想は『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」から導き出されたもののようです。つまり、聖徳太子の掲げる理想国家なるものは、人間に本来的に備わっている、「根性」の「善を行う性質」を信じ、それをよりどころにして築かれるはずのものでした。その意味では、十七条憲法の第二条の「能(よ)く教(をし)ふるをもて從(したが)ふ。其れ三寶に歸(よ)りまつらずは、何(なに)を枉(まが)れるを直(ただ)さむ。」という件はきわめて重要な内容を含んでいます。ここで聖徳太子は人間の「善を行う性質」に対するゆるぎない確信、あるいは強い信念を抱いて理想国家の構築に向けて臨んでいることを表明しているのです。同時にこの件は、今日的な意味での教育のあり方、及び教育の原点にも通じてくるものがあります。

その4.法隆寺・百済観音像に観る仏性、「和」の思想、そして根性

 飛鳥文化を代表する彫刻であり、南梁(なんりょう)様式といわれる、法隆寺・百済観音像(くだらかんのんぞう)、中宮寺・半跏思惟像(はんかしゆいぞう)(弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう))、広隆寺・半跏思惟像(弥勒菩薩像)に共通する柔和な微笑みに、しなやかな指の表現に、そして柔和な長身の姿に太子の「和」の思想の息吹を感じとるのはさほど難しいことでないでしょう。
プロレタリア文学作家の亀井勝一郎は、紀行文『大和古寺風物誌』の中で、初めて法隆寺を訪ね、百済観音像に拝した時の強烈な印象を吐露しています。亀井はこの観音像を前にして色々な想念が過ぎる中、「観察よりもまず合掌したい気持ちになる」、「心の中ではつい拝んでしまうのである」などと圧倒された気持ちを述べています。さらに最後にこうも述べています、「もしこの世に大慈大悲というものがあるならば、それはすべての苦悩を、罪禍(ママ)を、いな、人生そのものをさえ忘れさせてくれる力にちがいあるまいと思う。」と。和辻哲郎が百済観音に「浄土の象徴があった」と述べた時(『古寺巡礼』)、この亀井の心境に近いものに言及したのではないかと思います。
そして最後に、亀井は自分の百済観音像に寄せる想いを和歌に託します。

いづくより 来ませし仏か 敷島の 大和の国に 廬(いほり)して 千年(ちとせ)へにける けふ日まで微笑(えみ)たまふなり 床しくも 立ちたまふなり ほのぼのと 見とれてあれば 長き日に 思ひ積みこし 憂(うれひ)さり 安けくなりぬ 草枕 旅のおもひぞ ふるさとの わぎ妹(も)に告げむ 青によし 奈良の都ゆ 玉づさの 文しおくらむ 朝戸出の 旅の門出に 送りこし わがみどり児も 花咲ける 乙女とならば 友禅の 振袖着せて 率ゐ行かむぞこのみ仏に

反歌
現世(うつしよ)は めでたき代ぞ 平(たひら)けく 微笑(えみ)て在(お)はせな 百済みほとけ
繰り返しのようになりますが、亀井は百済観音像を通じて自分に向き合い、心を洗われ、カタルシスともいえるような境地に引き込まれたと言っていいでしょう。亀井が大慈大悲の境地に至ったとは言わないまでも、少なくとも自らの仏性が呼び起こされたことを、この和歌は表現しています。
「根性」の本義が仏教で言うところの「人が生まれつき持ち合わせている、善悪両方を行う性質」であるとすれば、亀井がここで呼び起こされた仏性は根性の「善を行う性質」の側面の反映とも言えます。また、仏性は聖徳太子の「和」の思想が目指すところのものでもあったのです。それゆえ、「根性」がその本義において「和」の思想を生み出す拠り所となったということにもなります。

その5.「根性」をめぐる土岐善麿と石川啄木、そして県相の校歌

 ここに至るまで「根性」の意味について堂々巡りをしてきたような気もします。それもこれも「根性」という言葉がその本義よりも転義のほうが一般化している、というよりも、本義の「根性」は私達の意識の中で希薄化しているからでした。
さて、こういった本義と転義のいずれにおいても「根性」という語に特別な思いを抱いていた人物がいました。その人物とは、我らが県相の校歌の作詞者・土岐善麿です。
土岐善麿は本校の校歌を作詞するにあたって、校訓の3つの標榜「礼節・信義・根性」のうちの一つ「根性」を校歌に取り込むのにずいぶん苦心したのではないかと思われます。「礼節」と「信義」は単語として歌詞にありますが、単語としての「根性」はありません。しかし、単語としてはありませんが、歌詞の中の「たゆみなく たえず 進む力ぞ 健やかに たくましく こころ保てば」の部分は明らかに「根性」を念頭において作詞されたものです。同時に、このことは、土岐が歌詞の中で「根性」と他の2つの標榜「礼節・信義」を列記するのには、躊躇あるいは抵抗があった、ということをも示唆します。いわば校訓という精神的支柱となる3本の柱から一本を外すということですから、このことは本来的には大変由々しいことで極めてバランスを欠くことにもなります。今現在、さほどというか、全くというか、そのようなことに疑義を挟む人はいないだろうと思いますが、作詞する土岐本人にとっては頭を悩ました厄介事だったろうと想像されます。当時であれば、校訓もできたばかりで関係者にとって目映いばかりの輝きを放っていたはずです。出来上がった校歌に校訓の一本の柱である「根性」という言葉が入っていないことに違和感を覚えた人もいただろうし、そのことを実際に質した人がいたとしてもおかしくありません。当然、土岐のほうもそういった状況を想定した上で、それでも「根性」を外さざるを得ない事情があったのだろうと思います。
土岐が「根性」を単語としては外した一般的な理由はいくつか考えられます。例えば、旋律上の問題、語呂の問題、あるいは徳育的な標榜と体育的と思われがちな標榜とのギャップを埋める問題などが考えられるでしょう。そして、もちろん、土岐はこういった要素も加味して「根性」を外したのかもしれません。
しかし、蓋然性としてここで一番考慮する必要がある要素は土岐善麿その人の精神風土とも言うべきものなのです。その精神風土を抜きにしては校歌の中から「根性」という単語が欠落した問題は語れないと言っても過言ではないでしょう。その精神風土は石川啄木との出会いと二人の交友関係によって生まれ出たものでした。とはいえ、啄木は土岐との出会いからわずか1年3ヶ月後に肺結核のため27年の短い生涯を閉じてしまいます。
土岐は短いが凝縮された交友関係を通じて啄木という人物の中に凄まじいまでの根性を見続け、かつ体感もしたのです。しかも、その根性は、転義と本義を共に備えたものだったように思えます。啄木の短い一生は悲惨と貧困を渡り歩く、文字通りの流浪の旅でした。もし、根性が今日的な、闘争心、頑張り、忍耐といったものを意味するのであれば、啄木の生活には死ぬまで常にそういった形容がついて離れることはありませんでした。また一方、啄木は純粋に自己にこだわり続け、言い換えれば自己を「純粋培養」し続け、自己を歌い続けた詩人でもありました。その意味では、啄木は生涯、いわば「本義の根性」に徹したのです。

かなしきは
飽くなき利己の一念を
持てあましたる男にありにけり(『一握の砂』「我を愛する歌」より)

土岐は啄木が死んで約二ヵ月後、遺稿をまとめて『悲しき玩具』というタイトルで出版しました。そのあとがきに次のように書いてあります。

「石川について、言ふとなると、あれもこれも言はなければならない。しかし、まだ、あまり言ひたくない。もっと、じっとだまって、かんがへてゐたい。実際、石川の、二十八年の一生をかんがへるには、僕の今までがあまりに貧弱に思はれてならないのである。」

このタイトルは啄木が生前、「歌は私の悲しい玩具である」と言っていたのでつけたとも書いてあります。土岐をして「僕の今までがあまりに貧弱に思はれてならない」と思わせた啄木の短いが凝縮された一生について、土岐自身が具体的に何を言おうとしていたのかを推し量るのは容易なことではありません。しかし、その後、土岐は啄木について自らの歌を通していろいろと語っており、そこから見えてくるものもあります。たとえば、『啄木』という詩を作り、さらに曲までつけ(作曲者:橋本国彦)、啄木に思いを馳せてその生き様を歌い上げています。土岐は、闘い抜き、頑張り続け、耐え抜き、歌い続けた啄木の姿と啄木への自らの尽きせぬ思いを重ね合わせて歌い上げます。

1.さすらいの 旅に出でても 恋しきは ふるさとの山
思い出の 川のひびきに かんこ鳥 声はまぎれず
胸くるし 胸くるし 胸くるし 若き愁いよ

2.東の島の 浜辺に たわむれし かにはいずくぞ
人の世の 嘆き尽きねば あこがれの 明日を思いぬ
歌かなし 歌かなし 歌かなし 永久(とわ)の命や

ところで、昭和41年10月14日、土岐善麿が来校し、新聞委員からインタビューを受けた記事が「相高新聞第11号」(昭和41年10月28日発行)に載っています。その記事の中に注目すべき土岐の言葉があります。「偉大なる凡人になれ」と「思考者として行動し、行為者として思考せよ」という言葉をインタビューした生徒たちに投げかけています。これらの言葉は、自己にこだわり続け、自分の人生に妥協することのなかった、それゆえ社会生活者としては落伍者であった、「偉大なる天才」歌人・石川啄木の悲運の人生を念頭においてのものだったに違いありません。啄木こそ、まさしく「思考者として思考し、行為者として行動した」人物だったのです。しかし無論、土岐は啄木の生き方を否定しているわけではありません。むしろ逆で、土岐はかつて啄木の透き通るほど純粋な生き方に憧憬にも似たものを抱きつつも、同時に天才の危うさを一人の友人としてハラハラ、ドキドキしながら見守っていたのでした。
土岐は啄木の死から4年後の大正5年、歌集『雑音の中』で啄木への新たなるコミットメントを次のように表明しています。ここで、ハラハラ、ドキドキしながら見守っていた友人の立場から姿勢をシフトし、死を含む啄木のすべてを受容し、気持ちの整理ができた土岐の姿が浮かび上がってきます。

友としてかつて交わり 兄として今はもおもふ 渝(かは)ることなし

おそらく、「偉大なる凡人になれ」という発言も「思考者として行動し、行為者として思考せよ」という発言も、「兄として今はもおもふ」という気持ちの延長線上にあります。土岐は、啄木との友情、啄木の悲運の死を通して自らの使命というべきものを見出したのです。その使命とは将来を担う若者たちへメッセージを伝えることでした。土岐が小学校から大学にいたるまで数多くの校歌を作詞しているというのは何よりもそのことを物語っています。歌詞の中には希望、夢、未来、友情、青春、自由、正義、永遠、真理などの「明」の言葉が挿入され、若者たちが健全な人生や社会生活を送ることを願うメッセージが盛り込まれているのです。したがって、県相の校歌で「友」と「いのち」が歌いこまれているのも、明らかに「兄として今はもおもふ」土岐のメッセージです。つまり、「兄として今はもおもふ 渝(かは)ることなし」というのは、啄木という一人の天才から抽出できる「明」の部分を若者たちに伝えていこうという、土岐の決意表明なのです。その一方、土岐にとって「根性」という言葉は、いわば啄木の「暗」の部分に直結していく隠喩のようなものでした。それゆえ、「兄として今はもおもふ 渝(かは)ることなし」という決意表明したことからすれば、「根性」という言葉を校歌に盛り込むことに対しては二の足を踏むのも当然のことだったと言えましょう。
土岐善麿は、以上のような経緯から、本校の校訓の三番目の標榜「根性」を校歌に盛り込むにあたって苦心した末に「たゆみなく たえず 進む力ぞ 健やかに たくましく こころ保てば」とアレンジして落着させたものと思われます。

​おわりに


昭和55(1980)年4月15日、土岐善麿は、短い悲運の生涯を終えた天才・石川啄木の分も生き抜いて96年間の生涯に幕を閉じました。生家である浅草・等光寺に埋葬され、その墓石には「一念」とのみ刻まれています。この「一念」は、おそらく、前記した啄木の歌「かなしきは 飽くなき利己の一念を 持てあましたる男にありにけり」に因んだものに違いありません。さらに、同じく等光寺本堂脇にある歌碑には石川啄木の次の歌が刻まれています。

浅草の夜のにぎわひに
まぎれいり
まぎれ出て来しさびしき心 (『一握の砂』「我を愛する歌」より)

ここ浅草・等光寺には「友としてかつて交わ」った短い期間の中で培われた土岐の啄木に対する思いが詰まっています。また同時に、土岐が数多くの校歌を作詞して将来を担う若者たちにメッセージを伝えようと思った原点もここにあるのかもしれません。(了)
※本文は41期生3学年便り「彬彬の風」の第1号から4回にわたって連載されたものです。

​<主要参考文献>
・加治 伸行 全訳注「論語」(講談社)
・竹内照夫 訳「礼記(抄)」(平凡社)
・坂本 太郎・家永 三郎・井上 光貞・大野 晋 校注「日本書紀(上)」(岩波書店)
・宇治谷 孟 著「全現代語訳 日本書紀(上)」(講談社)
・梅原 猛 著「海人と天皇(上・下)」(小学館) 
・梅原 猛 著「聖徳太子(上・下)」(小学館)
・梅原 猛 著「隠された十字架」(新潮社)
・吉村 武彦 著「聖徳太子」(岩波書店)
・佐藤 正英 著「聖徳太子の仏法」(講談社)
・谷沢 永一 著「聖徳太子はいなかった」(新潮社)
・亀井 勝一郎 著、入江泰吉 写真「大和古寺風物誌」(大和書房)
・和辻 哲郎 著「古寺巡礼」(岩波書店)
・高田 良信 編・著「法隆寺の四季 行事と儀式」(小学館)
・高田 良信 編・著「法隆寺の歴史と信仰」(小学館)
・冷水 茂太 編「土岐善麿歌集」(光風社書店)
・土岐 善麿 著「雑音の中」(東雲堂書店)
・金田一 京助 編「一握の砂・悲しき玩具-石川啄木歌集-」(新潮社)
・西脇 巽 著「石川啄木 矛盾の心世界」(同時代社)
・碓田 のぼる 著「石川啄木」(かもかわ出版)
・夏目 漱石 著「坊ちゃん」(新潮社)
・田上 太秀 著「『涅槃経』を読む」(講談社)
・神奈川県立相模原高等学校創立40周年誌編集委員会編
「神奈川県立相模原高等学校40周年記念誌」
・神奈川県立相模原高等学校新聞委員会発行「相高新聞」(第1号~第11号,第32号)