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更新日:2025年1月16日

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頌徳碑式典

令和6年度2学期終業式を迎えた12月20日(金曜日)、頌徳碑記念式典を執り行いました。

平塚盲学校の正門を入って左手には、頌徳碑という石碑があります。1938(昭和13)年に完成し除幕式が行われた当時は「頌徳碑」という金属製の銘板が上部に取り付けられていました。その文字は当時の文部大臣・木戸幸一による筆でした。しかし、第二次世界大戦中の1943(昭和18)年、金属類回収令によって供出されたようで、銘板は取り外されたままでした。その銘板の取り外されたままの部分に、いつかは建立当時のように復元したいという思いが卒業生や職員の中にありましたが、長く叶えられないでいました。

このたび、平塚盲学校後援会により新たに石製の銘板を作っていただくことができました。銘板は石碑の上部にあるので銘板を触ることはできませんが、レプリカを作っていただけたことで、頌徳碑記念式典を迎えるまでの間に、幼児児童生徒や教員が銘板を触ってイメージすることができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (新しい銘板がはめられた頌徳碑の姿)

記念式典には金目エコミュージアム、平塚盲学校後援会、学校運営協議会、平塚盲学校同窓会よりご来賓をお迎えして執り行いました。

「金目エコミュージアム館長のことば」「後援会長のことば」があり、平塚金目の地域の皆様と平塚盲学校のご縁が長く続いていることや、頌徳碑についてのお話があり、改めて平塚盲学校で学び教えることができる現在をありがたく感じるひとときでした。

あたたかい気持ちで歌った「校歌斉唱」の後は「除幕セレモニー」を行いました。この日は朝から頌徳碑に白い幕がかけられ、セレモニーを待っていました。

幼児児童生徒の代表と、来賓の皆様、校長が紅白の紐を引っ張ると、白い幕がするりと落ち、新しい銘板がはめられた姿をお披露目することができました。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(幼児児童の代表、来賓の皆様、校長が紅白の紐を持ってスタンバイ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (紐を引っぱり始めます)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (幕がだんだん下がってきます)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (幕がするりと落ちる瞬間です)

またこの日は後援会より記念として幼児児童生徒と職員に「釣鐘最中」をいただきました。このお菓子は、校主・秋山博の墓所がある寂静寺門前にある山口屋という和菓子屋さんのものです。お菓子に添えられた、平塚盲学校後援会からの「頌徳碑について」の説明文と、頌徳碑に彫られている文「頌徳碑文」はこの記事の最後に掲載しています。

平塚盲学校の歴史についてもっと知りたい方は「110年の歩み 平盲ミュージアム」(外部サイトへリンク)のページをご覧ください。

頌徳碑は今日も私たちの平塚盲学校を見守っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (校舎に向かって立つ頌徳碑)

(引用1)平塚盲学校後援会からの「頌徳碑について」の説明文

「頌徳碑について」

 みなさんが通っている平塚盲学校は、1910年(明治43年)4月に現在の平塚市南金目で「私立中郡盲人学校」として始まりました。校舎は何回か移転した後、今の場所に移ってきたのは1950年(昭和25年)のことです。

 現在は「県立」の学校ですが、開校した時は「私立」でした。腕のいい「金目の鍼屋さん」といわれていた秋山は、自らの技術を他の盲人に伝えることで、自立した生活が送れるようにと自分の財産をほとんど出して学校づくりを考えました。しかし、それだけでは資金が足りず、また、開校に関するアドバイスも必要でした。

 そうした中、自由民権運動の盛んであった金目地区の有力者たちが、秋山に知恵を授けただけでなく、多くの資金を出してくれたのです。「私立」であるにもかかわらず、費用を徴収しなかったことは、「中郡盲人学校」で学ぶ人たちにとってはとてもありがたいものでした。ただ、学校のお金はいつも足らない状態が続いていたのでした。

 このような、校主・秋山をはじめとする先人たちの「徳」があってこそ、経済的に自立した生活ができているという思いを強くした卒業生たちが、その「徳」を称えるために建立したのが「頌徳碑」です。そして、この碑の除幕式が1938年(昭和13年)6月8日に行われ、この日が開校記念日としてその後毎年祝われています。

 この碑には、当初、「頌徳碑」という金属製の銘板が上部に取り付けられていました。しかし、1943年(昭和18年)の金属類回収令によって供出したのでした。銘板の取り外されたままの部分に、いつかは建立当時のように復元したいという思いが卒業生や職員の中にありましたが、長くかなえられないでいました。しかし、本日、どうにか少しは先人たちと共に思いをかなえることができたような気がしています。

 尚、新たな銘板は、有限会社秋山安太郎石材さんのアドバイスもあり石製。その文字(当時の文部大臣・木戸幸一筆)は、建立当時の写真から石材店さんが復元してくださいました。上部にあるので銘板を触ることはできませんが、面積にして、その約5分の1の縮小板は、秋山良次様のご厚意によりいただいていますので、触れていただきたく思います。

 今回、後援会より記念としてお渡しする「釣鐘最中」は、校主・秋山博の墓所がある寂静寺門前にある山口屋のものです。お早めにお口に運んでくだされば幸いです。

令和6年12月20日

平塚盲学校後援会

(引用2)頌徳碑に彫られている文「頌徳碑文」

「頌徳碑文」

本校ハ明治四十二年秋山博翁ノ創立ニ係ル翁夙ニ鍼按ノ發展ニ志シ同業大久保惣太郎荒井清心柳川藤五郎諸氏ト謀リ或ハ講習會ヲ開キ或ハ組合ヲ組織シテ其向上統一ニ努ムルコト二十年其熱誠ハ更ニ盲人教育機関ノ必要ヲ痛感シ普ク同志ヲ語ラヒ寝食ヲ忘レテ奔走盡瘁遂ニ私立中郡盲人學校ヲ金目村ニ創立セリ之ヲ本校ノ權輿トス初代校長ハ伊達時氏ニシテ翁ハ校主タリ其創業時代ヲ輔ケテ教授ニ經營ニ心血ヲ濺ゲル篤志家ヲ白木啓比企喜代助両国手トス宮田寅治氏猪俣道之輔氏二代校長森純一氏亦本校揺籃期ニ於テ克ク其哺育ノ重任ヲ完ウセラル曾々大正十二年震災ニ遭フ校長宮田寅治氏ハ白木比企森並ニ近藤市太郎猪俣松五郎諸氏ト協戮克ク之ヲ既倒ニ救ヒ且ツ将來ヲ慮リ百難ヲ排シテ平塚市ニ復興セリ加之諸氏ノ仁心ノ醇厚ナル縣下幾多聾唖者ノ學ブニ所ナキヲ撼ミ大正十四年又聾話學校ヲ併設ス嗚呼一校ノ經營既ニ容易ナラズ况ヤニ校ヲヤ然モ克ク之ニ堪ヘテ著々成績ヲ擧ゲ遂ニ縣移管ノ隆運ヲ致セルモノ實ニ盲唖教育史上特筆スベキ功業ト謂フベシ徃時ヲ回想スレバ感慨寔ニ量リ無キモノアリ茲ニ本校職員生徒卒業者並ニ平塚大磯伊勢原秦野各鍼灸按摩組合等相謀リ報恩反始ノ誠ヲ輸スベク前記十二氏ノ徳ヲ頌シ石ニ勒シテ之ヲ不朽ニ傳フ

 昭和十三年四月八日 神奈川縣師範學校長正五位勲六等 佐藤禮云選文並書